理解し認めること-読み物3
なぜ叱責ではなく、認める方がよいのか
渦中にいるものに対し、彼らのためを思って叱責しても殆ど効果はありません。叱責している者は、 あいてが理解してないと感じると論理的に正論をならべて理解してもらおうとがんばってしまいがちです。 最後には、心を閉ざされるか逆切れされるかで終ることが多いようです。私たちは、叱責や正論を受け留め反省する子どもは1割 くらいと考えています。その一割に賭けるようなギャンブルはしません。 一方、認めるという行為は相手の主体性と自主性を少しずつ伸ばしていくものだと考えています。
夜間徘徊や異性のところへの外泊も、認める方がよいのか
結論から述べますと、それら行為は認められないが、受け入れるしかないと考えます。
ホームみらいにくる子どもたちの中には、小学校高学年から夜間徘徊や家出が始まり、中学生のころには、それら行為が頻繁となり、家庭や施設では手に負えず、転がり込んでくる者がいます。
彼らの多くは、ネグレクトを含む虐待を受けています。彼らに対し思うことは、家よりも外の方が面白い、または家よりも外の方がまし、と思っている、と言うことです。
学校から家に帰ると、500円玉がテーブルの上に置いてある家庭。生活のため、夜の仕事もやむを得ません。
しかしその代償が夜間徘徊や外泊です。500円玉は、子どもを夜の町に送り出すきっかけを作ります。
はじめは、一人で家にいる寂しさからの回避行動で町に出ます。そのうちに町で強い刺激を受け、それを求めるために外出するようになります。夜の街は、大人にも刺激的なのですから、子どもがそれを求めるように
なっても、なんら不思議はありません。夜間徘徊や外泊が、寂しさを紛らわし、強い刺激をもたらす。子どもがこれらを学習した場合、それらは簡単に習慣化してしまうことでしょう。
大人は、子どもが補導され、または事件を起こし捕まったことで、やっと問題の大きさを認識します。ここで、責任感からなのか、愛情からなのか、夜間徘徊や外泊をやめさせようとする大人が少なからずいます。
大人の管理が強くなればなるほど、子どもは、うるさい親からの回避行動として夜間徘徊や外泊が強まります。家に明かりが点いている時には、まず帰宅しなくなります。親が仕事に行く時間を見越して
帰宅し、仕事から帰ってくる頃に出ていくようになるケースも出てきます。
大人が管理しようとしても、効き目がないのであれば、その教育方法には改善が必要です。
逆説的ですが、夜間徘徊や外泊を、受け入れるしかないのです。受け入れた方が早く改善する可能性が高いと考えます。
回避行動と逃避行動の理解
大人は、子どもに対し、いくら言っても効き目がないと分かると、小言を言わなくなります。精神的に疲れ切って言えなくなるのです。
しかし、小言が無くなっても、子どもは「大人に会うと、うるさく言われ、嫌な気持ちになる」ことをすでに学習しているので、
嫌な気持ちになるかもしれないという不安から、大人を避け続けます(逃避行動)。
回避行動とは、実在する不快事象を避ける行動です。一方、逃避行動とは、実在するか分からない事象、不安を減少させるための行動です。
残念ながら、逃避行動はきっかけがなければ、無くなることはありません。むしろ強まっていく傾向にあるようです。
強迫神経症の手洗いなどがこの例です。見えない細菌に不安を感じ、その不安を減少させるために手洗いをする。1度目の手洗いで、ほんの少しだけ不安が減少する。
ほんの少しだけの不安減少が、2度目の手洗いでの期待(手を洗えば、さらにほんの少しだけ不安が減少する)を膨らめ、2度目の手洗いを促す。後はこの繰り返し。
子どもの逃避行動も同じ原理とみることができます。きっかけを大人が作り、「大人がうるさく言わなくなった」ことを再学習してもらうことが必要なのです。
夜間徘徊や異性のところへの外泊に対し、なにができるのか
「Q&A」の「罰使用の欠点」で説明がある通り、子どもは規則の裏をかき、「夜間徘徊なんかしてねーよ!友だちのところにいたし。」などと返答したり、事態からの完全な逃避を行うようになります。
子どもは(大人も)かまって欲しい生き物です。子どもは、無視されかまってもらえないよりも、結果的には怒られて泣いたとしても関わってもらいたいのです。または家にいると肉体的あるいは精神的暴力を振るわれる。
虐待を受けて育った子どもは、それが虐待だという認識も持たず、傷ついているということすら気づかない者もいます。彼らは、そのストレスを問題行動として表現することもあります。
また、そのストレスが身体的症状として表れることもあります。